昔、こんなことがありました

学校に保存されている資料から、本校と児童生徒に関する主な出来事を紹介します。
障害児教育の不足や障壁が、多くの人々の善意とたゆまぬ努力によって克服されていったこと、 それにより児童生徒が励まされ、本校が発展していった歴史を感じとっていただければ幸いです。

黒色の文章は略史にある事項、青色の文章がこのページで挿入された記事です。


創立20周年までのエピソード

48年 4月 宮城県立西多賀養護学校として開校(小学部16学級98名、中学部13学級72名、教職員43名)。
開校後も校舎はなく、従来同様に、学習は病室を教室にみたてて行なわれ、職員室も病院から借りた一室を使っていた。この状態は、校舎建築第二期工事が完成する51年8月まで続いた。(参考:創立30周年記念誌p34)

 

48年 4~7月 このころ校章と校歌の制定が進められた。校章は学校と病院内を対象に公募した。病院にも呼びかけたのは、長期療養者の大人の入院患者の中には、多彩な才能をもった人たちがいたからだった。結果、入院患者だった猪股さん(53歳)の作品が入選し、その図案を元に校旗が制作された。いっぽう校歌は、紆余曲折の末、佐々木百太郎校長みずから作詞することとなり、(1)病気の不安、(2)両親と離れての淋しさ悲しさ、(3)治療と学習のできる場を得た喜び、(4)先生友達看護婦さんなど親身の世話をしてくれる人々の存在と感謝、(5)将来への希望、(6)精一杯の生き方・・・などを思いながら作詞に励んだ。(参考:創立30周年記念誌p33)。


48年 7月 開校式挙行(校旗樹立・校歌制定)。


48年 8月 県教育長・津軽氏が、「49年度に校舎建設着工」を決断した。実はこのとき西多賀養護学校よりも1年早く開校した拓桃養護学校の校舎建設が急がれていたにもかかわらず、国立病院との連携上不都合が多いという事情で西多賀養護学校の校舎建設が優先された。(参考:創立30周年記念誌p34)

 

48年 8月 青少年赤十字に加盟登録した。

 

48年11月 すべての慢性疾患児への療育費支給を実現するための基礎資料を得るため、県下小中学校の協力を得て病弱児の一斉調査を行った。その結果、多くの病弱児童生徒が十分な入院・治療を受けていないことがわかった。

 

49年 2月 校舎建設地をめぐって、病弱養護学校としての最低基準を満たすための必要面積を確保したい学校・県側と、将来計画があるからとて寸借を惜しむ病院・国側の間で厳しい交渉が行なわれ、このころ仮測量で3000㎡の縄張りをしたものの、その後の交渉で2700㎡まで削減を余儀なくされたうえ、病院ボイラー棟の移築費用も負担せざるを得なくなった。(参考:創立30周年記念誌p34、創立40周年記念誌p18)

 

49年 3月 県立西多賀養護学校として初の卒業式が15日西多賀病院のホールを会場に行なわれた。佐々木校長は卒業生一人ひとりに「一隅を照らす者は国の宝なり」と直筆した短冊を贈った。式が終わったあと、筋ジストロフィーなどの重症児童12名がマイクロバスを利用して1泊の修学旅行をした。(1974/3/16朝日新聞、1974/3/16読売新聞、1974/3/18河北新報)

 

49年 4月 山元町立山下小・中学校分教室松風学園が廃校となり、宮城県立西多賀養護学校山元分校として開校。

 

49年 4月 ペルテス病児のための幼児学級を開設した。

 

49年 5月 全国養護学校長研究大会が本校を会場に開催された。

 

49年 5月 このころ校舎建築の第一次設計案が示されたが、佐々木校長は納得がいかなかった。佐々木校長は、障害児施設のありかたに格別の見識をもつ拓桃園長の高橋氏のアドバイスを聞き、また「百聞は一見にしかず」と県職員と設計士などを伴って先進校(新潟県柏崎養護学校・埼玉県熊谷養護学校)を視察した。こうして関係者一同は「病弱児や肢体不自由児の校舎はこうあるべきものだ」との納得を得ることができ、設計が大きく見直された。

 

49年 6~10月 このころ佐々木校長らが、筋ジスなど歩行困難な生徒たちに修学旅行をさせようと、中学部生徒約30名を東京へ1泊で連れていく計画をたてた。ところが最も楽に行ける飛行機で往復しようとしたところ、「万一の場合スムーズに脱出できない」という理由で航空会社から断られてしまった。佐々木校長は「飛行機による団体旅行ができないと身障者は差別され続ける」と航空会社に検討を希望したものの、緊急脱出について定める社内規則のため実現せず、修学旅行の計画は駄目になった。この話を聞いた仙台空港長が、仙台空港を基地にしている他の航空会社に相談をもちかけたところ、地元の東邦航空が通常の半額料金で1回30分の遊覧飛行を好意で引き受け、10月7日、中学部3年生たちがセスナ機に延べ16回に分けて快晴の仙台市・松島上空を飛行し、大喜びした。(1974/9/30朝日新聞、1974/10/8朝日新聞、1974/10/8読売新聞) 

49年 8月 長谷川労働大臣・大槻副知事・津軽教育長が視察。

 

49年10月 本校の提唱で、東北病弱虚弱児教育研究連盟(会員数:114校、会長:本校佐々木校長、事務局:本校)が発足し、総会ならびに第1回研究会を開催した。

 

50年 3月 校舎建築第一期工事着工。(参考:1974/10/8読売新聞)

 

50年 9月 高橋教育次長視察。


50年10月 校舎第一期工事竣工(鉄筋3階建2,188㎡、50.3着工)。


50年12月 校外学習用バス「わかくさ号」第1号新車配置。車イスのまま乗降できるリフト付きの大型バスの配置によって、貸切バスを利用していた不自由さから解放された。(1975/12/17河北新報)【写真:わかくさバス】

 

51年 3月 校木を「あかまつ」と制定した(山元分校:かりん)。友情ラインが延びるあかまつの原生林は病院のシンボルであり、「子どもたちがあかまつ林のように手をとりあって強くのびのびと育つように」という願いがこめられていた。(参考:創立20周年記念誌p25)

 

51年3 月 このころ、教頭・半沢氏が高等部設置について、目的・入学者選考方法・教育課程などをまとめた最初の基本構想を作成。以後17年にわたる高等部設置の運動が始まった。(参考:創立40周年記念誌p53)


51年 8月 校舎第二期工事竣工(鉄筋3階建1,548㎡、50.10着工)。8月30日から新校舎への登校が始まった。【写真:新しい校舎への初めての登校】

 

51年 9月 オーストラリアの障害児の父マックローズ氏が来校した。

 

51年10月 創立20周年・校舎落成記念式典挙行。【写真:記念式典の様子】