昔、こんなことがありました

学校に保存されている資料から、本校と児童生徒に関する主な出来事を紹介します。
障害児教育の不足や障壁が、多くの人々の善意とたゆまぬ努力によって克服されていったこと、
それにより児童生徒が励まされ、本校が発展していった歴史を感じとっていただければ幸いです。

黒色の文章は略史にある事項、青色の文章がこのページで挿入された記事です。


創立40周年までのエピソード

63年 3月 玉浦療養所で子どもたちに勉強を教え、本校創立のきっかけをつくった初代「患者先生」の菅原進さんが、西多賀病院職員(児童相談員)を退職した。60年3月に定年退職したあと、3年間の非常勤となっていたが、その期限が到来したものだった。菅原さんは、退職後も現在に至るまで、病院患者のためのボランティアとして病院に通う日々を続けている。

(平成)
元年10月 「県障害児(者)の進路を拓く会」(代表世話人・西多賀養護学校佐藤教諭)が、養護学校の高等部増設など、障害をもつ子どもたちの教育環境の充実・改善を求める請願書を県議会に提出した。(参考:1989/10/4河北新報)


 2年 この年、「高等部設置検討委員会」が再開されて、昭和58年度以降の資料が全職員に提示された。またこの年の9月に「高等部設置親の会」が結成され、署名・陳情・県外視察など精力的な活動が始まった(参考:創立40周年記念誌p53)。

 

 3年 2月 河北新報「私たちで作った中学生のページ」(朝刊26面)で本校中学部の紹介記事が掲載された。(参考:1991/2/10河北新報)

 

 3年 5月 「高等部設置検討委員会」が「高等部設置推進委員会」に改称され、他県病弱養護学校の資料収集・高等部対象生徒・教育課程・校舎等の検討が順次進められるようになった。そしてこの年に県の担当者による学校訪問が何度かあり、実現に向けての具体的な活動が始まった(参考:創立40周年記念誌p53)

 

 3年12月 河北新報「私たちで作った中学生のページ」(朝刊22面)で本校中学部の紹介記事が掲載された。(参考:1991/12/11河北新報)

 

 3年10月 筋ジストロフィー症の患者たちで構成する劇団「FANTASY(ファンタジー)」の第4回公演が西多賀養護学校で行われ、「フォー・ザ・フューチャーⅡ」を熱演した。(2001/10/14河北新報)。
 

 4年 2月 仙台市立上野山小学校が空き缶回収の益金で購入した車イスを本校に寄贈した。

 

4年11月 第19回東北地区病弱虚弱教育研究連盟研究協議会宮城大会開催。


4年11月 「高等部設置親の会」が、組織の充実を図るため県筋ジス協会の協力を得て「高等部設置促進連絡協議会」に改変し、関係機関へのさらなる働きかけが展開されるようになった(参考:創立40周年記念誌p53,55)。

 

 5年 1月 在日米陸軍軍楽隊のメンバー18人が本校を慰問、バンド演奏を披露した。 

 

 5年 7月 県教育長が学校と病院を訪問し、県から現有施設のまま高等部設置が可能かどうか前向きに検討するよう指示された(参考:創立40周年記念誌p19、53)。

 

 5年12月 県教委が20日、平成6年4月に高等部を設置する方針を発表した(参考:1993/12/21河北新報、1993/12/21朝日新聞、1993/12/21読売新聞)


 5年12月 ボーイスカウト仙台第34団が車イス2台を本校に寄贈した。(参考:1993/12/12河北新報)


 6年 1~3月 1月に高等部の基本事項(教育課程など)が確認されて、高等部設置へ向けた実務的準備が始まり、職員室の改造(3階会議室の大半を隣の職員室に合併)などがあわただしく行なわれた。続いて3月には第1回の入学者選考と合格発表が実施された。(参考:創立40周年記念誌p53)。

 

 6年 4月 高等部開設(1学年定員8名(4名×2学級))。中学卒業後の進路を求めがたい重度心身障害者を対象とする、県内初の病弱養護学校高等部として発足したが、病院の伝統ある仙台一高通信制との共存を考慮して、重複学級2学級でのスタートとなった。校舎は用地確保ができなかったが、それは後日にゆだね、ともかく機会を逃さず高等部設置そのものを最優先にした結果であった。4月10日に多数の来賓列席のもと高等部開設式と第1回入学式が行なわれ、4月16日には「入学記念の集い」が行なわれて、記念の紅梅・白梅を校長先生はじめ高等部全員で植樹した【写真】。(参考:創立40周年記念誌p53~54、1994/3/19読売新聞、1994/3/20河北新報)。

 

 7年 2月 高等部1年男子生徒の短歌が東洋大学・現代学生百人一首に入選した。全国からの応募総数2万3854首の中から選ばれた100首のひとつとなった。

 

 7年 8月 校舎1階教室とプレールーム増改築工事竣工。

 

 7年10月 高等部第一回修学旅行が実施された。行き先は東京方面(江戸東京博物館、東京ディズニーランド)で、2年生8名が2泊3日の旅行を楽しんだ。 また、「障害者にもおしゃれの楽しさを知ってもらおう」と、長町3丁目の美容院が筋ジストロフィーの障害者11人を招き、カットやパーマの無料サービスをおこなった。


 8年 1月 校外学習用バス「わかくさ号」第3号新車配置。

 

 8年 2月 日本筋ジス協会宮城県支部の在宅プロジェクト委員会主催の、筋ジス患者を対象にした初めてのパソコン教室が、本校を会場に開催された。高等部の生徒や在宅患者ら13名が参加。東北大学・東北学院大学の関係者や、情報関係の企業に勤務する障害者らが講師をつとめ、インターネットなど最新の知識を学んだ。(参考:1996/2/3河北新報)

 

 8年 7月 仙台市内の異業種交流グループ「みやぎ情報交流推進グループ(MJKS)」が、本校で「バーチャル授産所」の実験を始めた。「みやぎ情報交流推進グループ(MJKS)」は、宮城県などが出資する第三セクター会社「テクノプラザみやぎ」を中心に情報通信を利用して地域課題を解決することなどをめざしているグループ。「バーチャル授産所」は、障害者の自立訓練を兼ねて軽作業を行なう授産所をインターネット上に開設し、在宅でホームページ作成などの仕事を請け負うシステム。生徒の社会参加や就労につながるとして期待されている。(1996/7/22河北新報、1996/9/12産経新聞)

 

 8年 8月 河北新報「100%中学生」(朝刊20面)で本校中学部の紹介記事が掲載された。(参考:1996/8/21河北新報)

 

 8年10月 高等部Cコース3年生の生徒4名が、全日本教育工学協会主催のインターネット公開ディベートに参加した。


 9年 3月 高等部第1回卒業式(卒業生9名)。

 

 9年 4月 秋田新幹線の開業を契機にPR活動のため仙台を訪問中の男鹿市観光協会の「なまはげ」が本校を訪問した。「怠け者はいねが」と奇声を発するたびに、約150名の子どもたちは大喜びだった。(1997/4/17朝日新聞)

 

 9年 9月 福島美術館で開催された第13回ハンディーアート展に高等部の生徒作品17点が展示された。(高等部だよりNo.5)

 

 9年 9月 高等部の生徒が職場実習の一環として、仙台市内のソフトウエア製造企業でソフトウエアやテレビ電話機器の利用法を学ぶパソコン研修を行った。異業種交流グループ「みやぎモデル・イニシアチブ・ネットワーク(MIMINet)」や、障害者の在宅就労を支援するボランティア団体CyBirdなどが協力した。(1997/9/24河北新報)


 9年10月 通学用新渡り廊下竣工(鉄骨造2階建93.70㎡、9.5着工)。


 9年11月 創立40周年記念式典挙行。