昔、こんなことがありました

学校に保存されている資料から、本校と児童生徒に関する主な出来事を紹介します。
障害児教育の不足や障壁が、多くの人々の善意とたゆまぬ努力によって克服されていったこと、
それにより児童生徒が励まされ、本校が発展していった歴史を感じとっていただければ幸いです。

黒色の文章は略史にある事項、青色の文章がこのページで挿入された記事です。


創立30周年までのエピソード

52年 9月 第11回筋ジス児教育研究大会が開催された。

 

53年 3月 宮城県立西多賀養護学校山元分校閉校(53.4 宮城県立山元養護学校として独立)。


53年 4月 重症心身障害児の教育開始(小学部20学級110名、中学部12学級70名、重心部3学級15名、教職員52名)。

 

53年 5月 「ベッドスクール親の会」を「西多賀養護学校父母教師会」に改組した。

53年度 小学部で運動会を始めた。子どもたちの病気を気遣って無理のないものにするため競技種目は少なかった(スプーンリレー、紅白玉入れ、飴食い競争)が楽しく過ごせ、以後毎年開催されるようになった。(参考:創立40周年記念誌p28)

 

54年 4月 病弱児・重症心身障害児の就学が義務化された。

54年 5月 31日、プロ野球・阪神タイガースの小林繁投手が若菜嘉晴捕手と一緒に突然西多賀養護学校を訪問、子どもたちを励ました。(1979/6/1河北新報、1979/6/1朝日新聞)

 

54年 7月 校舎第三期工事竣工(体育館、鉄筋一部2階建594㎡、54.1着工)。


55年 4月 文部省特殊教育教育課程の研究指定校となる(55・56年度)。


56年 この年、熊谷教頭が高等部設置の意義など具体的な構想を「本校高等部設置について」にまとめた(参考:創立40周年記念誌p53)。

 

56年 4月 重複学級指導開始(小学部2学級7名)。ボイラー施設が完成した。

 

56年 9月 離島診療の足などとしてビーチクラフト機を購入した岩沼市の歯科医・木内さんが、西多賀養護学校の子どもたち20名を遊覧飛行に招待。松島・仙台上空を5回、30分ずつ飛行して子どもたちを喜ばせた。(1981/9/3河北新報)【写真】

 

58年 この年、校内組織として「高等部設置検討委員会」が設けられ、各種調査や協議が継続的に行なわれるようになった(参考:創立40周年記念誌p53)。

 

59年 3月 校外学習用バス「わかくさ号」第2号新車配置。

 

60年 本校および本校父母教師会長名で、高等部設置の要望を提出した。しかし高等部設置要請の動きは、その後ほとんど進展がないまま数年が経過することになった(参考:創立40周年記念誌p53)。

 

60年12月 東北高校の野球部員とマーチングバンドが慰問に来校した。当時東北高校のエースピッチャーだった佐々木主浩選手(元プロ野球選手・現在野球解説者)に注目が集まった。【写真】

 

61年 3月 西多賀病院に入院している2人の少年A君(18歳)とB君(14歳)が、東京・帝国劇場で上演中の「屋根の上のバイオリン弾き」に招待され、主演の森繁久弥さんから励ましを受けた。これは同病院の看護士長・川村さんが子どもたちの闘病生活をつづった著書『羽の折れた天使たち』(宝文堂、1985年)を森繁さんに送ったのがきっかけで、森繁さんが「私に何かしてあげられることはないか」と、東京まで来れる2人を同病院の“患者代表”として招待したもの。終演後、場内アナウンスで紹介されてステージに上がった少年たちが森繁さんに花束を渡すと、森繁さんは腰を落として少年たちの腕を握りしめた。万雷の拍手はしばらく鳴り止まなかった。(参考:1986/3/5毎日新聞)

 

61年 5月 仙台瑞鳳ライオンズクラブから、グランドピアノ1台を寄贈された。


61年10月 第13回東北病弱虚弱教育研究協議会宮城大会開催。

 

62年10月 創立30周年記念式典挙行。