高等部設置の経緯

 高等部の設置は、本校が県立に移管する前からの懸案でした。

しかし開設までの道のりは、それまでのさまざまの出来事と同じように、決して順調に進んだわけではなく、そこには多くの人々の長年の努力がありました。


  ベッドスクールの時代から、本校卒業生の進路は限られていました。
  卒業後も入院が必要な生徒は、通信制の高校に行くしか進学の道がありませんでした。
  しかし通信制高校に進学することができても、その教育課程は病弱の生徒を想定したものではありません。
  ときどき実施されるスクーリング(登校しての授業)の代わりに先生が病院まで来てくれることはありましたが、 レポートは健常者と同じように提出しなければなりません。たくさんのレポートを書くのは病弱の生徒にとっては過酷なことで、卒業まで勉学を続けるのは非常に困難でした。
  いっぽう、本校を卒業したあと退院して自宅に戻れる場合でも、病気の関係で激しい運動はできない生徒が多く、体育の授業の関係で、 普通高校に入学するのは困難でした。ベッドスクールの教頭だった半澤健先生は、「体育の授業ができないために進学できないのは理不尽」と考えて、 県内の高校と個別に交渉をし、卒業生を受け入れてもらったこともありました。 

 

  高等学校への進学率がほぼ100%になった社会情勢の中で、「わが子にもぜひ充実した高校生活を味わわせてやりたい」と願う保護者たちは、「西多賀養護学校に 、病弱の生徒のための高等部を設置してほしい」という想いを募らせていったのです。

 

  高等部設置に関する最初の構想は、昭和51年3月に西多賀養護学校の初代教頭・半澤健先生によって作られました。 先生が書いた「高等部設置に関する考察」というレポートには、高等部設置の目的・入学選考方法・教育課程・運営に関する基本的構想が示されていました。 続いて昭和56年には、第2代教頭の熊谷先生が「本校高等部設置について」と題した文書で、設置の意義などさらに具体的な構想を述べています。 そして昭和58年には校内組織として「高等部設置等検討委員会」が設けられ、各種調査や協議が継続的に行われるようになっていきました。

 

  このような動きに基づいて、昭和60年には、西多賀養護学校と父母教師会長の連名で、「進行性筋ジストロフィーおよび一般慢性疾患患者を対象とした高等部設置の要望」がまとめられました。 しかし当時の西多賀養護学校には小中学部あわせて200名を超す児童生徒が在籍しており、校舎は満杯の状態でした。とても高等部を設置できる余裕はなく、運動は 頓挫してしまいました。
  高等部設置運動が再開されたのは平成2年でした。このころ本校の在籍児童生徒は150名を下回るようになっていました。この年「高等部設置検討委員会」が再開され、 また9月には高等部設置を切望する保護者20名を主体とした「高等部設置・親の会」が結成され、署名・陳情・県外施設など精力的な活動が始まりました。

 

  開始から3ヶ月で6900筆の署名を集め、県議会へ請願書を提出すると、わずか数日後の県議会(本会議)でこの請願が採択されるという大きな進展がありました。 しかしその後は遅々として動きがなく、保護者たちはやりきれない思いで子どもの卒業を迎えざるを得ませんでした。
  しかし翌3年5月には、「高等部設置検討委員会」が「高等部設置推進委員会」と改称されて、他県の病弱養護学校の 資料収集・高等部対象生徒・教育課程・校舎等の検討が順次進められるようになりました。
  やがて県の担当者による学校訪問も繰り返されるようになり、実現に向けての作業が始まりました。 保護者たちは、平成4年11月に日本筋ジストロフィー協会宮城支部の協力を得て「高等部設置連絡協議会」を発足させ、 知事や教育長に陳情を重ねました。また高等部設置を願う気持ちを広く知らせるために「スバル」と題する新聞を発行して、 在校生・卒業生・教員・病院関係者の声をまとめて関係機関などに配布する運動も行ないました。

 

平成4年11月に発足した
「高等部設置連絡協議会」の総会の様子
協議会が発行した新聞「スバル」

 
 こうした運動が実って、平成5年には県教育長が本校を訪問し、同年12月に高等部設置が正式決定されるに至ったのです。

 このように本校高等部は、多くの人々の長年の悲願が実った県内初の病弱養護学校高等部として開設されました。それは、「たとえ自分の子どもには間に合わなくても、後輩のために高等部を設置しなければ」との思いで多くの保護者が努力した成果でもありました。高等部設置決定を報じる新聞を見て、多くの保護者・教員・関係者が喜びの声を上げたのは言うまでもありません。


 最終的に、本校高等部は、「通信制高校進学というそれまでの進路との共存を図り、また中学卒業後の進路を求めがたい重度心身障害者を対象とする」という基本方針の下で、定員8名(重複学級2学級)でのスタートとなりました。校舎建設は用地確保ができなかったため後日にゆだねられましたが、それも“機会を逃さずに開設そのものを優先”した結果でした。

 平成6年1月、「障害に応じたきめ細かい教育を実践するため、3コース制をとる」などの基本的事項が確認され、それから校舎3階の職員室の改造工事(=職員室と隣接する会議室との境界壁を移動させて職員室を拡大する改装工事)などの実務的な準備が行われるとともに、第一回の入学者選考試験が実施され、4月からのスタートに備えたのでした。


★このページの作成にあたっては、本校保管資料『創立40周年記念誌』を参考にしました。また初代教頭・半澤先生からも多くのご教示をいただきました。 掲載の写真・資料は、高等部設置連絡協議会々長を務められた白鳥さんから借用したものです。転載はご遠慮ください。