療育費制度の実現と、「おかあさんの骨をもらって歩けた」 【2】

  「玉浦小学校矢野目分校」誕生後にPTA会長に選ばれた今野君のお父さん(今野正広さん)は、 「単なる“我が子かわいさ”よりも、もっと広い眼で患者たち全体の幸福を考えなければならない」と思うようになり、 カリエス児童に対する療育制度を確立するため、療養所長の近藤先生と一緒になって活動を始めました。
  今野さんは、国鉄職員としての仕事のかたわら、昭和32年から翌年にかけて、予算編成の時期になると何度も何度も自費で上京しました。
  そして、全国社会福祉協議会の人たちとも協力しながら、ベッドスクールのPTA会長として、 写真や資料を携え、カリエス児童に対する福祉制度の確立を訴えて、国会・厚生省・大蔵省を説き回りました。
  ある時は、ベッドスクールやカリエス児の実情を訴えるために、当時の岸信介首相や佐藤栄作蔵相の私邸まで出かけたこともあったそうです。
こうして今野さんたちが療育費の予算化と苦闘しているころ、元首相・鳩山一郎氏の子息で大蔵省の主計官だった鳩山威一郎氏は、 今野さんの真剣な陳情に対してきちんと耳を傾けてくれ、そうした実情を知らずにいたことを「不勉強で恥ずかしい次第」と正直に話し、 深く関心を示されたそうです。そしてその努力が実って、昭和33年12月、翌年度(昭和34年度)予算に初めて「骨関節結核児童療養費」1600万円が計上されることになり、 翌年の春には児童福祉法も改正されて、カリエス児童に対する療育費制度がスタートしたのです。
  普通のサラリーマンだった今野さん夫妻にとって、子どもの医療費の他に、東京との往復旅費などの“運動資金”を工面するのは大変なことで、 そのお金を捻出するための努力は並大抵のものではありませんでした。生活をぎりぎりまで切り詰めたうえ、 毎晩おそくまで内職をしていたのです。この献身的な努力によって獲得された療育費予算は、その後は着実に増え続けました。
そして4年後の昭和38年度予算では1億6000万円(発足当初の10倍)にもなり、もはや“貧しさゆえに治療が受けられない子どもはいない” とさえ言えるくらいになったのです。

 

「お母さんの骨をもらって歩けた わが子へ腰骨を削りあたえた母の手記」 今野喜美子著  カリエス児童に対する療育費制度がスタートした昭和34年の秋、今野君は4回目となる大きな手術を受けました。
  これまでカリエスに冒されたため削られて細くなってしまった脊椎を補強するため、脊椎に骨を移植する手術でした。
  このとき周囲の反対を押し切って、今野君のお母さん(今野喜美子さん)が「自分の骨を提供したい」と申し出たのです。
  激痛に耐えてお母さんの骨盤から取り出された長さ9センチ・幅3センチの骨片が今野君の脊椎に移植され、 やがて今野君は少しずつ松葉杖をついて歩けるまで回復していきました。
  そして、このことがきっかけとなって、昭和36年5月今野君のお母さんは「県民の母」第1号に選ばれました。
  これまで名士の夫人が選ばれていたことに「形式的だ」との批判が生まれたため、県下に広く“母の代表”を求めることにしたところ、 カリエスで9年間闘病を続ける子供のために自分の骨盤を削って移植した今野さんが選ばれたのでした。
  母の日の14日、仙台市内で開催された「母の日大会」で、お母さんは感謝の花束を贈られました。
そしてこの年からは一般の結核児童に対しても療育費が給付されるようになり、同年の6月と8月には、 今野さん一家の体験がテレビでも放映されました(NETテレビ ・東北放送テレビ「暮らしの医学・第36回・この母の願い―カリエスと闘う母と子の記録」 )。
  昭和38年5月に出版された手記(『おかあさんの骨をもらって歩けた』=【写真右:本の表紙】)は、今野君を中心とする親子の闘病記であると同時に、 療育費制度実現のために奮闘努力するお父さんと、家族を愛してやまないお母さんの半生記でもありました。そしてその年の9月には、 ベストセラーとなったこの本を原作とするテレビドラマが山本富士子さん主演で放映され(フジテレビ・シャープ月曜劇場「お母さんの骨をもらって歩けた」=【写真下】)、 全国から大きな反響が寄せられました。 

写真ドラマ「お母さんの骨をもらって歩けた」のひとコマ。 母役:山本富士子さん、父役:北村和夫さん、子役:石井浩さん

写真昭和38年の麻田機長さんによる遊覧飛行のとき、 お父さんにおんぶされて飛行機を降りる今野君

   その後、昭和39年に児童福祉法がさらに改正されて翌40年度からは筋ジス児にも療育費が支給されるようになりました。そしてこの改正のときにも、 その背後には陳情活動に駆け回った今野君のお父さんの姿があったのです。

  カリエスを含む結核児童に対する療育費制度は、 「児童福祉法第21条の9」という規定に基づいて、今も実施されています。
  なお現在、西多賀病院やこども病院に入院・治療している児童生徒に対しては、児童福祉法の諸規定に基づいて療育費が給付されるほか、 さらにそれを補う形で「特別支援学校への就学奨励に関する法律」に定められている特別支援教育就学奨励費として、 例えば修学旅行費用や教科書購入費用(高等部の場合)などが支給されています。


★このページの作成に当たっては、当時のたくさんの新聞記事のほか、上記『おかあさんの骨をもらって歩けた』 (番町書房、1963年/宮城県立図書館蔵)を参考にしました。この本は、当時の玉浦ベッドスクール・西多賀ベッドスクールの様子を知るうえでも大変貴重な記録です。
なお当時の写真はすべて今野正広さんから拝借したものです。転載はご遠慮ください。