県立移管をめざした運動。流れが変わったのは1970(昭和45)年でした。
近藤先生と半澤先生は、県教育委員会の学務課や指導課に働きかけました。
その結果、1970(昭和45)年4月に学務課と指導課が、ベッドスクールを内々に視察しました。
仙台市立の小中学校の分校であるベッドスクールを県教委が視察するというのは異例のことです。
このとき半澤先生は、ベッドスクールの実情や将来の方向について説明しました。
そして「西多賀ベッドスクールは、分校でありながら、全国に先駆けて開設された兵庫県立や千葉県立の病弱養護学校よりも 規模が大きい」と、独立移管の必要性を訴えました。
同年5月には、西多賀小中学校長や病院の幹部職員が集まって「養護学校設置準備小委員会」をつくりました。
この席で独立の養護学校の設置を請願することや、校舎建設の青写真を協議しました。
そして8月、西多賀小中学校の校長先生たちと半澤先生が県教委を訪問して、口頭で請願を行ないました。
翌46年9月、県議会に「親の会・後援会」の連名で請願を行いました。それは次のようなものでした。
仙台市立西多賀小、中学校療養所分校を県立養護学校に独立させることに関する陳情 一、陳情の趣旨 慢性小児疾患児を収容し、これに教育を施している仙台市立西多賀小、中学校療養所分校は、学級数27、 教員数33名といった我が国有数の規模を持つに至りました。すでに、全国には44校の病虚弱養護学校があります。 二、陳情の理由 当分校は、昭和32年岩沼町立玉浦小、中学校矢野目分校として開校され、それまで病床に伏しつつ通学の望みを絶たれた児童生徒に光明を与えて下さいました。 昭和46年9月 陳情者 仙台市鈎取字紅堂13 西多賀ベッドスクール親の会会長 那須歳明 社団法人西多賀ベッドスクール後援会会長 今野正巳
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この請願をきっかけに、県議会はようやく県立移管に前向きになりました。
その背景には、当時の日本の社会全体が病弱者や障害者に対する福祉を真剣に考え始めていたことが大きく影響していたものと思われます。 4ヶ月後の1972(昭和47)年1月、県議会の文教警察委員会所属の議員たちが西多賀ベッドスクールを視察しました。
このとき、身障者でもあった桜井議員はベッドスクールの実情に大きな理解を示され、後の「わかくさバス」配車に力を尽くして下さったそうです (校外活動用のリフト付き大型バスを配車されたのは、西多賀が日本で初めてでした)。
同年9月、県議会の文教警察委員会から病院長(近藤先生の後任者である保坂先生)と半澤先生が出席を求められ、委員会で県立移管についての説明をしました。 そして保坂先生と半澤先生が退席したあと、同委員会は「県立学校として発足させる」ことを議決しました。
ところで、こうして県で独立移管の話が進み始めたとき、仙台市教育委員会から、「経済的な問題と、仙台市以外の児童生徒が多い、という2つの理由で、 仙台市立養護学校としての独立は不可能」とする正式の通告がありました。仙台市教委は、仙台市から県に対して移管要請をする前に、 先に県議会が県立移管の請願を採択したことに驚いた様子だったそうです。そこで半澤先生たちは、この好機をとらえて、仙台市に働きかけ、 仙台市教委から県教委に向けて「校舎の建設、幼稚部から高等部までの設置、職員の適正配置」の3点を要望してもらったのだそうです。
仙台市は11月に、県に対して「県立移管の申請書」を提出しています。
そしてついに、1972(昭和47)年12月21日からはじまった県議会の中で、「翌年4月に県立養護学校として発足させる」ことが可決されました。 校名が決まり、県条例の一部も改正されました。さらに年度末の昭和48年3月9日には、教育次長を長として宮城県立西多賀養護学校設立準備委員会が 設置され、4月からの県立移管にむけての準備作業が急ピッチで進められたのです。