~ベッド・スクール設置を満場一致で議決~
昭和31年の春、患者先生たちは手分けをして、1年間の授業や成績の資料を持って子供たちの出身学校を訪ね、進級・卒業を認めるよう 校長先生にお願いしたそうです。
風呂敷に包んだ資料を広げて、職員室の先生たちに食い下がりました。
このとき、子どもたちの努力を認めて特別に賞状を書いてくれた学校もたくさんありましたが、中には「入院患者が勝手にやった学習指導が認められ るなら、学校や教員はいらない」などと、まともに取り合ってくれない校長先生もいました。
また県教育委員会も「義務教育の進級は成績の良し悪しではなく、学校に出席することが条件だから」と、冷たく突き放すだけでした。
近藤先生や患者先生たちは、教育委員会が「学校に行かないと進級できない」というのを聞いて、「それじゃあ、なんとかして公立の学校を病院の 中に作らなければならない」と考えるようになりました。
近藤先生は岩沼町議会教育民生委員長の武田さんに「養護学級を分校として認めてほしい」と頼み込みました。
かねて事情を知っていた武田さんは即座に承知して、町議会・町当局への説得をはじめました。昭和31年11月はじめに、 近藤先生が岩沼町議会と県議会に正式の請願書を提出すると、町議会では「岩沼町の財政は厳しいのに、そこまでする必要があるのか」などの反対も あって激しい議論になりましたが、近藤先生らの説得で少しずつ町議会の態度は変わり、ついに11月25日の町議会で請願が満場一致で採択 されました。
また県教育委員会も当初は「勉強すると病気が悪化するから」などと言って、医師である近藤先生らが説得しても、なかなか態度を変えようとしませ んでした。
しかしその後、ベッドスクールの子どもたちの様子が新聞でたびたび報道されるようになると、県教委は実現に前向きになり、病院に学校 を設置することが法的に(学校教育法75条の適用について)問題ないことを文部省にも確認しました。
そして、11月29日に県教委次長・同総務課長・ 同学務課長らがベッド・スクールを視察、明春からの分校設置の方針を決め、翌12月27日には県議会がベッド・スクール設置を満場一致で議決。
さらに翌32年3月20日、県教委の定例委員会で玉浦小・中学校矢野目分校の設置が決まったのでした。